災害支援の現場で

 2018年7月。
西日本を中心に発生した線状降水帯のため、豪雨が発生し、各地に甚大な被害をもたらした。

全容が掴めない状況の翌週、ひょうごボランタリープラザが実施する岡山県総社市行きのボランティアバスに同行してほしいと出発の2日前に連絡が入った。
その日はあいにく私の企画したセミナーの当日。しかも、災害支援・受援のセミナーだった。
迷う中、深夜、講師に連絡をとり、なんとかなると承諾を得た上で翌日ボスに了解を得てバスに同乗した。
ボランティアセンターの運営支援とのことだったが、現場で支援活動に従事できるよう、準備を整えた。

踏み抜き防止のインソールを入れた長靴、ゴーグル、革手袋、帽子、長袖、防塵マスクなど、水害支援の必須の道具を急遽揃えて。500mlのドリンク3本と追加で1リットル1本の水。
神戸に6時20分に集合し、30名あまりの他のメンバーとともにバスに乗り込んだ。
2時間ほどで現場に到着。
朝9時前にもかかわらず灼熱。
バスを降りて用具を担いで20分ほど歩き現場に向かう。それだけで背中を汗が伝う。
Vセンターはわずか10畳ほどのスペース。そこに受付と資材受け渡しを行う机がある。こんなところで10名あまりの運営支援チームメンバーが活動できるのだろうか、また必要なのだろうか?とすぐに、現場に出てください、との依頼が入った。
私は長靴に履き替え、他の10名のメンバーと瓦礫の集積所で搬出の作業に従事することになった。
アルミニウム工場の爆発で家のあらゆるガラスが吹き飛んでいる。丸見えの状態。
どんどんと空き地に運び込まれる水浸しの家財が山になっている。
容赦無く照りつける太陽、1分もしないうちに顔から汗が吹き出る。
2トントラックに、タンス、本棚、なんだかわからない状態になった木製のもの。
鉄の塊のような重さになった水浸しの布団、座布団。
トラックに積み込んでは、二次集積場に運びこむ。細い土道は集落に入るトラックや自家用車で大混雑し、通常なら5分程度のところ、20分以上かかっていた。

大量にでるガラスの家財。
このままでは積み込めないと、一枚一枚割り、ガラス片だけ土嚢袋に入れて別にすることになった。現場の判断だ。熟練のメンバーがバッグからトンカチを取り出した。そんなものは指示された持ち物にはなかったはずだ。だが熟練の彼はこうした小道具がいかに現場で必要かを知っていた。
ガラスは少しの衝撃で割れるときに飛び散る。上から物でカバーし、自分たちにかかってこないように配慮しながら慎重に作業を進めた。
全身から汗。
めまいがするほどの暑さ。
作業よりも休憩時間の方が長くなるのは当然だったし必要だった。
休憩時間には過去の災害支援の話になる。
一番年上の人は80才だった。体が動かなくなったと本人は言うがその足取りは若い人に全く劣らなかった。

リフト付きのトラックが貴重とのことで、冷蔵庫の運び出しには重宝された。
冷蔵庫の運び出しがないか声をかけながらトラックは移動した。
ある農家で、米冷蔵庫の運び出しを頼まれた。
通常の冷蔵庫の倍はある。しかも小さな納屋にあり取り出すのも難しそうだった。
5人かかりで外に出した。錆びついた冷蔵庫の足に目がいった。私も日頃のスクワットの威力を出した。(つもり)

ようやく外に運び出せたとき、家人は泣いて喜んだ。

近所の人の配慮で提供された納屋で休憩を取りながら、午後3時まで作業を続けた。
ひたすら水分と塩タブレットを舐めながら作業し、休憩をとった。

もやは汗と自分の皮膚の境目がわからないほどになった。

帰りのバス。溶けるようにバスの座席に体を沈めた。
途中の国民宿舎で温泉に入り汗を流した。手が痛みで震えていた。指にかなりの負荷がかかっていたようだ。

神戸に到着し解散。ほっとして荷物を担いでバスを降りた。
熟練の人たちは、明日は京都で支援活動だといっていた。タフさに舌を巻く。
こうしたことが繰り返されているのが災害ボランティアの現場なんだと思った。
私はボランティアセンターの運営支援者としての経験はあるが、リアルな現場は実に久しぶりだった。非常にいい経験になった。
今年度は、災害支援のネットワークやコーディネーションを平時から積み上げる仕事がある。これからも被災者に寄り添う、ボランティアコーディネーションのあり方を模索しようと思う。


アルミニウム工場横の集積場


手が震えてガラスのコップを落として割ってしまった

コメント